「子ども時代を愛してください。子どもの遊びを、楽しみを、その愛すべき本能を大切にしてください。」
— ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)
250年以上前から「遊びを大切に」と言われてきたことに、少し勇気づけられます。とはいえ忙しい日には、遊びを「活動と活動のすきま」として扱ってしまうこともあるかもしれません。明日の保育の中で、子どもが一番夢中になっていた遊びは何だったか、ふり返ってみませんか。
子どもと向き合い、保育や教育のあり方を考え続けた先人たちのことばを集めました。100年以上前のことばの中に、今の保育にも通じる問いがあります。外国の人物のことばは原文から当サイトで訳し、原文と出典を添えています。
今日のことば
「子ども時代を愛してください。子どもの遊びを、楽しみを、その愛すべき本能を大切にしてください。」
— ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)
250年以上前から「遊びを大切に」と言われてきたことに、少し勇気づけられます。とはいえ忙しい日には、遊びを「活動と活動のすきま」として扱ってしまうこともあるかもしれません。明日の保育の中で、子どもが一番夢中になっていた遊びは何だったか、ふり返ってみませんか。
「自然は、子どもがおとなになる前に、まず子どもであることを望んでいます。」
— ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)
「就学までに〇〇ができるように」という声に押されると、つい先を急ぎたくなります。けれど子どもは、子どもの時間をたっぷり生きることで次の段階へ進んでいきます。いま目の前の子に「早くできるように」と願っていることは、本当に今でなければならないことでしょうか。
「子ども時代には、子ども時代ならではの、ものの見方、考え方、感じ方があります。」
— ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)
おとなには「困った行動」に見えることも、子どもの側から見ると筋の通った理由があることがよくあります。水たまりに入る、同じ絵本を何度も読みたがる――そこには子どもなりの見方や感じ方があるのかもしれません。明日、思わず止めたくなった行動を、その子の目線で見たら何が見えるでしょうか。
「教育でいちばん役に立つ原則とは何でしょう。それは時間をかせぐことではなく、時間を失うことです。」
— ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)
時計を気にしながら「早く着替えよう」「次に行くよ」と声をかける場面は、どの園にもあると思います。ルソーは、あえて時間を「失う」ことにこそ教育の意味があると言いました。明日の日課の中で、子どもに任せてゆっくり待ってもよい時間はどこにありそうでしょうか。
「わたしの手は子どもたちの手の中にあり、わたしの目は子どもたちの目に注がれていました。」
— ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(1746〜1827)
戦争で親を失った子どもたちと暮らしたペスタロッチの言葉です。手をつなぐ、目を合わせるといった小さな関わりが、子どもにとっては「この人はわたしを見てくれている」という実感になります。明日、一日の中で一人ひとりと目を合わせられた時間は、どのくらいあるでしょうか。
「何よりもまず、子どもたちの信頼と、わたしを慕う気持ちを得なければなりませんでしたし、そう願っていました。」
— ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(1746〜1827)
新年度や入園直後は、生活の流れやルールを早く身につけてほしいと思いがちです。けれど子どもは、安心できる相手ができてはじめて、まわりの世界に心を開いていきます。まだ慣れない子にとって、明日のあなたはどんな「安心できる人」でいられそうでしょうか。
「自然は、人間のあらゆる力を練習によって開いていきます。そして力の成長は、使うことに支えられています。」
— ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(1746〜1827)
スプーンを使う、ボタンをとめる、友だちに気持ちを伝える――どの力も、実際に使ってみる中で少しずつ育っていきます。おとなが代わりにやってしまえば早くすみますが、そのぶん子どもが力を使う機会は減ってしまいます。明日、子どもが自分で「使ってみる」機会を、どの場面で残せそうでしょうか。
「だからこそ家庭よ、あなたこそが、人が自然に育っていくことすべての土台なのです。」
— ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(1746〜1827)
ペスタロッチは、人が育つ土台は家庭の生活にあると考えました。保育の場は家庭の代わりではなく、家庭とともに子どもの育ちを支える場所です。明日の送り迎えで、保護者と子どもの育ちを「一緒に喜ぶ」ために、どんな一言が伝えられそうでしょうか。
「教育も教えも、はじめは子どものあとからついていき、見守り、守るものであるべきです。指図し、決めつけ、口をはさむものであってはなりません。」
— フリードリヒ・フレーベル(1782〜1852)
幼稚園の生みの親フレーベルは、保育者の基本の立ち位置を「あとからついていく」ことに置きました。先回りして手順を示すことが必要な場面もありますが、それが続くと、子どもが自分で考える余地は小さくなります。明日、子どもの「やってみたい」に先にことばを重ねず、少しあとからついていける場面はありそうでしょうか。
「若い植物や若い動物には、わたしたちは場所と時間を与えます。そうすれば、それぞれの中の法則にしたがって美しく開き、よく育つと知っているからです。」
— フリードリヒ・フレーベル(1782〜1852)
フレーベルはこの文のあとで、それなのに人は子どもを粘土のように思い通りにこねようとする、と続けています。栽培活動で芽が出るのを待つように、子どもの育ちにも「場所と時間」が必要なのかもしれません。明日、あなたのクラスの子に足りていないのは「場所」と「時間」のどちらでしょうか。
「遊び仲間を決して傷つけないこと。それどころか、仲間を幸せにするために、自分にできることをすべてすること。」
— ロバート・オウエン(1771〜1858)
オウエンは、幼児学校の遊び場で子どもたちに伝えていく約束として、このことを挙げました。遊びは、友だちと一緒に過ごす楽しさや、相手を思いやる経験が生まれる場所でもあります。明日の遊びの中で、子ども同士が「相手をうれしくさせた」瞬間に気づいて、ことばにしてみませんか。
「ひとりで自由に歩けるようになったら、子どもたちはこの遊び場に迎え入れられます。」
— ロバート・オウエン(1771〜1858)
200年前、工場で働く親の子どもたちのために、用意されたのが「遊び場」でした。歩き始めた子どもにとって、安心して動き回れる空間は、それだけで育ちを支える環境になります。明日、1〜2歳の子が「自由に歩ける」場所は、園の中にどれくらいあるでしょうか。
「人格を形づくるこの施設で、子どもたちは罰をいっさい用いずに教えられ、育てられています。」
— ロバート・オウエン(1771〜1858)
体罰が当たり前だった時代に、オウエンは罰を使わない教育を実際に行っていました。今の保育でも、強い口調や「〇〇しないと××できないよ」という言い方が、知らず知らずのうちに罰の役割をしていることがあります。明日、子どもの行動を変えたいとき、罰の代わりにどんな関わりが選べそうでしょうか。
「最も良く、最も賢い親がわが子のために望むこと。それを、社会はすべての子どものために望まなければなりません。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)
保育は、一つひとつの家庭の願いと、社会全体の願いが重なる場所です。どの家庭に生まれた子にも、「わが子にこうあってほしい」と願われるような毎日を届けることが、保育の公共的な役割なのかもしれません。あなたの園で、どの子にも同じように届けたいと思っていることは何でしょうか。
「ここでは子どもが太陽となり、そのまわりを教育のさまざまな手だてが回ります。子どもこそが、それらを組み立てる中心なのです。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)
デューイは、教育の中心がカリキュラムや教師から子どもへ移ることを、天動説から地動説への転換にたとえました。指導計画や行事の段取りを考えるとき、中心にあるのは本当に子どもでしょうか。明日の活動を一つ選んで、「子どもから出発すると、どう組み立て直せるか」を考えてみませんか。
「学校そのものを、授業を学ぶために切り離された場所ではなく、本物の、生き生きとした共同生活の場にすること。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)
園での毎日は、何かを「教わる」時間である前に、みんなで暮らす生活そのものです。食事の準備やお当番、けんかの仲直りなど、生活の中には人と一緒に生きる学びがたくさんあります。明日の生活の場面で、子どもたちが「自分たちのクラスをつくっている」と感じられるのはどんなときでしょうか。
「子どもは、身近な人とのふれあいでできた、わりあい小さな世界に生きています。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)
子どもにとっての「世界」は、家族や保育者、友だちなど、顔の見える人とのつながりでできています。だからこそ、知らない言葉や遠いできごとも、身近な人との経験に結びついたときに意味をもち始めます。明日伝えたいことを、子どもの「小さな世界」のどんな経験とつなげられそうでしょうか。
「わたしたちは、直接に教育することは決してありません。いつも、環境を通して間接的に教育しているのです。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)
「環境を通して行う保育」という考え方の源流の一つが、ここにあります。ことばで何度伝えるよりも、棚の高さや遊具の置き方、おとなのふるまいのほうが、子どもに多くを伝えていることがあります。明日、子どもに「伝えたいこと」を、ことばではなく環境で伝えるとしたら何を変えますか。
「落ち着いて、ゆっくりと、自然がみずからを助けるのにまかせ、まわりの状況がその働きを支えるよう気を配るだけ。それが教育です。」
— エレン・ケイ(1849〜1926)
エレン・ケイは、おとなの役割を「直すこと」よりも「まわりを整えること」に見ていました。子どもの気になる姿に出会ったとき、その子を変えようとする前に、まわりの状況を見直す余地があるかもしれません。明日、気になっている子のために、変えられる「まわりの状況」は何でしょうか。
「自分自身が子どものようになること。それが、子どもを育てるための第一の条件です。」
— エレン・ケイ(1849〜1926)
ケイはすぐあとで、これは子どもっぽいふりをすることではなく、子どもが世界に心を奪われるのと同じように、おとなも子どもに心を動かされることだと書いています。子どもと一緒に笑い、驚く時間は、保育の大切な専門性の一つです。最近、子どもと一緒に心から驚いたのはいつでしょうか。
「子どもにこうあってほしいと求めることで働きかけるのではなく、自分自身のあり方から受ける印象によって働きかけるということです。」
— エレン・ケイ(1849〜1926)
子どもはおとなの言葉以上に、おとなの姿をよく見ています。「やさしくしようね」と伝えるより、保育者が友だちや同僚にやさしく接している姿のほうが、ずっと深く子どもに届くのかもしれません。明日、子どもに見てほしい「自分のあり方」は何でしょうか。
「教育のいちばん大きな秘密は、ほかでもない――教育しないこと、の中にひそんでいるのではないでしょうか。」
— エレン・ケイ(1849〜1926)
「教育しない」は、放っておくことではありません。ケイはこの直後で、子どもを美しい世界の中で自由に動けるようにすることを、これからの教育の目的に挙げています。明日の保育の中で、あえて「教えない」ことで子どもの力が見えてきそうな場面はありますか。
「子どもが生まれたら、その子のゆずれない権利のひとつは――わたしたちがよく奪ってしまうものですが――子ども時代をもつ権利です。」
— ケイト・ダグラス・ウィギン(1856〜1923)
子どもの権利条約よりずっと前に、幼稚園の現場から「子ども時代をもつ権利」が語られていました。習い事や早期教育、おとなの都合で、子どもらしく過ごす時間が削られてしまうことは今もあります。園で過ごす時間は、子どもにとって「子ども時代」を味わえる時間になっているでしょうか。
「子どもには、自分の場所、自分の物、そして自分の体の大きさや願い、できることに見合ったまわりの環境をもつ権利があります。」
— ケイト・ダグラス・ウィギン(1856〜1923)
ウィギンはこのあと、ピアノが12フィートもあり、ドアノブに手が届かない家に住むおとなを想像してみてください、と続けています。ロッカーの高さ、手洗い場、絵本の棚は、子どもの体や「やってみたい」に合っているでしょうか。明日、子どもの目の高さにしゃがんで保育室を見回してみませんか。
「おもちゃはよく考えて選び、そのあとは、子どもをおもちゃと一緒にそっとしておきましょう。」
— ケイト・ダグラス・ウィギン(1856〜1923)
おとなの仕事は、遊びの中身を決めることより、遊びたくなる物を選び、あとは子どもに任せることなのかもしれません。つい「こうやって遊ぶんだよ」と使い方を見せたくなる場面もありますね。明日、新しい玩具を出すとき、説明せずに子どもの使い方を見守ってみるとどんな発見があるでしょうか。
「子どもはどの年齢でも広い場所を求めています。けれども1歳から7歳までは、広い場所は食べ物や空気とほとんど同じくらい必要なのです。」
— マーガレット・マクミラン(1860〜1931)
マクミランは、狭い路地で育つ子どもたちのために、庭のある保育学校をつくりました。園庭が狭い園や都市部の園でも、公園や室内の配置の工夫で、体を思いきり動かせる「広さ」を生み出すことはできます。明日、子どもたちが「広い」と感じられる時間と場所は、どこにつくれそうでしょうか。
「動くこと、走ること、新しい動きで何かを見つけること、「手足のすみずみで生きていると感じる」こと。それが幼い子ども時代の生活です。」
— マーガレット・マクミラン(1860〜1931)
幼い子どもにとって、体を動かすことは遊びであり、学びであり、生きることそのものです。「座って」「走らないで」が多くなった日は、子どもの体が動きたがっていたサインかもしれません。明日、子どもが全身を使って何かを「見つける」遊びを、どこに取り入れられそうでしょうか。
「よちよち歩きの子の一日を本当に物語ることができたら、それはこれまで書かれたどんなものより、わくわくする話になるでしょう。」
— マーガレット・マクミラン(1860〜1931)
おとなから見れば「いつもの一日」でも、1〜2歳の子にとっては発見と挑戦の連続です。記録や連絡帳に書く一文も、その子の目線に立つと、ぐっと生き生きしたものになります。明日、一人の子の一日を「その子が主人公の物語」として見てみると、どんな場面が見えてくるでしょうか。
「自ら育つものを育たせようとする心、それが育ての心である。世にこんな楽しい心があろうか。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)
倉橋は、子どもを「育てる」前に、子どもは「自ら育つ」存在だと考えました。そう思えると、保育は重い責任であるだけでなく、育ちに立ち会える楽しい営みにもなります。最近、子どもが「自分で育っていくな」と感じたのはどんな場面だったでしょうか。
「子どもは心もちに生きている。その心もちを汲んでくれる人、その心もちに触れてくれる人だけが、子どもにとって、有り難い人、うれしい人である。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)
子どもは、できたかどうかより「そのとき、どんな気持ちだったか」を生きています。泣いている理由をすぐに解決するより先に、「悔しかったね」と気持ちに触れてもらえることが、子どもの安心につながります。明日、行動より先に気持ちを受け止めたい子は誰でしょうか。
「子どもの心もちは、極めてかすかに、極めて短い。…かすかにして短き心もちを見落とさない人だけが、子どもと倶にいる人である。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)
大泣きや大げんかにはだれでも気づきますが、ふと曇った表情や、一瞬のうれしそうな顔は見過ごされがちです。そうした小さなサインに気づけることは、毎日そばにいる保育者ならではの力です。明日、目立たない子のかすかな心もちに、いくつ気づけそうでしょうか。
「人間は一人として迎えられ、一人として遇せられるべき、当然の尊厳をもっている。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)
集団で過ごす保育では、どうしても「みんな」「〇〇組さん」と呼びかける場面が多くなります。そのなかでも、一人ひとりが名前をもった「一人」として迎えられていると感じられることが大切です。明日の朝の受け入れで、どの子にも「あなたを待っていたよ」と伝わる迎え方ができているでしょうか。
「教育は人情の発露である。人情だけでは教育は出来ない。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)
子どもがかわいい、大切にしたいという気持ちは保育の出発点です。一方で倉橋は、その気持ちだけでは足りず、学びや工夫に支えられてはじめて保育になると語っています。あなたの「子どもが好き」という気持ちを、明日の保育でどんな工夫に変えてみたいですか。
「子ども時代を愛してください。子どもの遊びを、楽しみを、その愛すべき本能を大切にしてください。」
— ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)『エミール』で「子どもは小さなおとなではない」と説き、子ども時代そのものの価値に目を向けさせたフランスの思想家です。
250年以上前から「遊びを大切に」と言われてきたことに、少し勇気づけられます。とはいえ忙しい日には、遊びを「活動と活動のすきま」として扱ってしまうこともあるかもしれません。明日の保育の中で、子どもが一番夢中になっていた遊びは何だったか、ふり返ってみませんか。
Aimez l'enfance; favorisez ses jeux, ses plaisirs, son aimable instinct.
「遊び仲間を決して傷つけないこと。それどころか、仲間を幸せにするために、自分にできることをすべてすること。」
— ロバート・オウエン(1771〜1858)スコットランドのニュー・ラナーク工場に、働く親の子どもを預かる「性格形成学院」の幼児学校を開いた実業家・社会改革家です。
オウエンは、幼児学校の遊び場で子どもたちに伝えていく約束として、このことを挙げました。遊びは、友だちと一緒に過ごす楽しさや、相手を思いやる経験が生まれる場所でもあります。明日の遊びの中で、子ども同士が「相手をうれしくさせた」瞬間に気づいて、ことばにしてみませんか。
…he is never to injure his playfellows; but that, on the contrary, he is to contribute all in his power to make them happy.
当サイト訳。出典:『新社会観』第3論文(1813〜1814)
「おもちゃはよく考えて選び、そのあとは、子どもをおもちゃと一緒にそっとしておきましょう。」
— ケイト・ダグラス・ウィギン(1856〜1923)サンフランシスコで無償幼稚園を開き、保育者の養成にも力を注いだアメリカの幼稚園教育者・作家です。
おとなの仕事は、遊びの中身を決めることより、遊びたくなる物を選び、あとは子どもに任せることなのかもしれません。つい「こうやって遊ぶんだよ」と使い方を見せたくなる場面もありますね。明日、新しい玩具を出すとき、説明せずに子どもの使い方を見守ってみるとどんな発見があるでしょうか。
Choose his toys wisely and then leave him alone with them.
当サイト訳。出典:『子どもの権利』(1892)所収「子どもの遊び道具」
「動くこと、走ること、新しい動きで何かを見つけること、「手足のすみずみで生きていると感じる」こと。それが幼い子ども時代の生活です。」
— マーガレット・マクミラン(1860〜1931)ロンドンの貧しい地域に庭と外気を重視した保育学校(ナーサリー・スクール)を開いたイギリスの社会改革家です。
幼い子どもにとって、体を動かすことは遊びであり、学びであり、生きることそのものです。「座って」「走らないで」が多くなった日は、子どもの体が動きたがっていたサインかもしれません。明日、子どもが全身を使って何かを「見つける」遊びを、どこに取り入れられそうでしょうか。
To move, to run, to find things out by new movement, to 'feel one's life in every limb,' that is the life of early childhood.
当サイト訳。出典:『保育学校』第2章(1919)
「自然は、子どもがおとなになる前に、まず子どもであることを望んでいます。」
— ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)『エミール』で「子どもは小さなおとなではない」と説き、子ども時代そのものの価値に目を向けさせたフランスの思想家です。
「就学までに〇〇ができるように」という声に押されると、つい先を急ぎたくなります。けれど子どもは、子どもの時間をたっぷり生きることで次の段階へ進んでいきます。いま目の前の子に「早くできるように」と願っていることは、本当に今でなければならないことでしょうか。
La nature veut que les enfans soient enfans avant que d'être hommes.
「教育でいちばん役に立つ原則とは何でしょう。それは時間をかせぐことではなく、時間を失うことです。」
— ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)『エミール』で「子どもは小さなおとなではない」と説き、子ども時代そのものの価値に目を向けさせたフランスの思想家です。
時計を気にしながら「早く着替えよう」「次に行くよ」と声をかける場面は、どの園にもあると思います。ルソーは、あえて時間を「失う」ことにこそ教育の意味があると言いました。明日の日課の中で、子どもに任せてゆっくり待ってもよい時間はどこにありそうでしょうか。
…la plus utile règle de toute l'éducation? ce n'est pas de gagner du tems, c'est d'en perdre.
「自然は、人間のあらゆる力を練習によって開いていきます。そして力の成長は、使うことに支えられています。」
— ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(1746〜1827)スイスで孤児や貧しい子どもたちと寝食を共にし、愛情と生活に根ざした教育を実践した教育者です。
スプーンを使う、ボタンをとめる、友だちに気持ちを伝える――どの力も、実際に使ってみる中で少しずつ育っていきます。おとなが代わりにやってしまえば早くすみますが、そのぶん子どもが力を使う機会は減ってしまいます。明日、子どもが自分で「使ってみる」機会を、どの場面で残せそうでしょうか。
Die Natur enthüllt alle Kräfte der Menschheit durch Übung, und ihr Wachstum gründet sich auf Gebrauch.
当サイト訳。出典:『隠者の夕暮』(1780)
「若い植物や若い動物には、わたしたちは場所と時間を与えます。そうすれば、それぞれの中の法則にしたがって美しく開き、よく育つと知っているからです。」
— フリードリヒ・フレーベル(1782〜1852)世界で初めて「幼稚園(キンダーガルテン)」をつくり、遊びと恩物による保育を体系化したドイツの教育者です。
フレーベルはこの文のあとで、それなのに人は子どもを粘土のように思い通りにこねようとする、と続けています。栽培活動で芽が出るのを待つように、子どもの育ちにも「場所と時間」が必要なのかもしれません。明日、あなたのクラスの子に足りていないのは「場所」と「時間」のどちらでしょうか。
Pflanzen und Thieren, jungen Pflanzen und jungen Thieren geben wir Raum und Zeit, wissend, daß sie sich dann den in ihnen, in jedem Einzelnen wirkenden Gesetzen gemäß schön entfalten und gut wachsen …
「教育のいちばん大きな秘密は、ほかでもない――教育しないこと、の中にひそんでいるのではないでしょうか。」
— エレン・ケイ(1849〜1926)1900年に『児童の世紀』を著し、20世紀を子どもの権利と個性が尊重される時代にしようと訴えたスウェーデンの思想家です。
「教育しない」は、放っておくことではありません。ケイはこの直後で、子どもを美しい世界の中で自由に動けるようにすることを、これからの教育の目的に挙げています。明日の保育の中で、あえて「教えない」ことで子どもの力が見えてきそうな場面はありますか。
…uppfostrans största hemlighet ligger innesluten just i – att icke uppfostra?!
当サイト訳。出典:『児童の世紀』第2巻「教育」(1900)
「自ら育つものを育たせようとする心、それが育ての心である。世にこんな楽しい心があろうか。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)東京女子高等師範学校附属幼稚園の主事を務め、子どもの自発的な生活を大切にする保育を説いた「日本の幼児教育の父」です。
倉橋は、子どもを「育てる」前に、子どもは「自ら育つ」存在だと考えました。そう思えると、保育は重い責任であるだけでなく、育ちに立ち会える楽しい営みにもなります。最近、子どもが「自分で育っていくな」と感じたのはどんな場面だったでしょうか。
出典:『育ての心』序
「子ども時代には、子ども時代ならではの、ものの見方、考え方、感じ方があります。」
— ジャン=ジャック・ルソー(1712〜1778)『エミール』で「子どもは小さなおとなではない」と説き、子ども時代そのものの価値に目を向けさせたフランスの思想家です。
おとなには「困った行動」に見えることも、子どもの側から見ると筋の通った理由があることがよくあります。水たまりに入る、同じ絵本を何度も読みたがる――そこには子どもなりの見方や感じ方があるのかもしれません。明日、思わず止めたくなった行動を、その子の目線で見たら何が見えるでしょうか。
L'enfance a des manières de voir, de penser, de sentir, qui lui sont propres.
「何よりもまず、子どもたちの信頼と、わたしを慕う気持ちを得なければなりませんでしたし、そう願っていました。」
— ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(1746〜1827)スイスで孤児や貧しい子どもたちと寝食を共にし、愛情と生活に根ざした教育を実践した教育者です。
新年度や入園直後は、生活の流れやルールを早く身につけてほしいと思いがちです。けれど子どもは、安心できる相手ができてはじめて、まわりの世界に心を開いていきます。まだ慣れない子にとって、明日のあなたはどんな「安心できる人」でいられそうでしょうか。
Vor allem aus wollte und mußte ich also das Zutrauen der Kinder und ihre Anhänglichkeit zu gewinnen suchen.
当サイト訳。出典:「シュタンツ便り(シュタンツ滞在について友人にあてた手紙)」(1799)
「ここでは子どもが太陽となり、そのまわりを教育のさまざまな手だてが回ります。子どもこそが、それらを組み立てる中心なのです。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)シカゴ大学に実験学校をつくり、子どもの経験と生活を中心にした教育を唱えたアメリカの哲学者・教育学者です。
デューイは、教育の中心がカリキュラムや教師から子どもへ移ることを、天動説から地動説への転換にたとえました。指導計画や行事の段取りを考えるとき、中心にあるのは本当に子どもでしょうか。明日の活動を一つ選んで、「子どもから出発すると、どう組み立て直せるか」を考えてみませんか。
In this case the child becomes the sun about which the appliances of education revolve; he is the center about which they are organized.
当サイト訳。出典:『学校と社会』第2章(1899)
「子どもは、身近な人とのふれあいでできた、わりあい小さな世界に生きています。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)シカゴ大学に実験学校をつくり、子どもの経験と生活を中心にした教育を唱えたアメリカの哲学者・教育学者です。
子どもにとっての「世界」は、家族や保育者、友だちなど、顔の見える人とのつながりでできています。だからこそ、知らない言葉や遠いできごとも、身近な人との経験に結びついたときに意味をもち始めます。明日伝えたいことを、子どもの「小さな世界」のどんな経験とつなげられそうでしょうか。
「よちよち歩きの子の一日を本当に物語ることができたら、それはこれまで書かれたどんなものより、わくわくする話になるでしょう。」
— マーガレット・マクミラン(1860〜1931)ロンドンの貧しい地域に庭と外気を重視した保育学校(ナーサリー・スクール)を開いたイギリスの社会改革家です。
おとなから見れば「いつもの一日」でも、1〜2歳の子にとっては発見と挑戦の連続です。記録や連絡帳に書く一文も、その子の目線に立つと、ぐっと生き生きしたものになります。明日、一人の子の一日を「その子が主人公の物語」として見てみると、どんな場面が見えてくるでしょうか。
If the true story of a toddler's days were told it would be more thrilling perhaps than anything ever written.
当サイト訳。出典:『保育学校』第3章(1919)
「子どもは心もちに生きている。その心もちを汲んでくれる人、その心もちに触れてくれる人だけが、子どもにとって、有り難い人、うれしい人である。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)東京女子高等師範学校附属幼稚園の主事を務め、子どもの自発的な生活を大切にする保育を説いた「日本の幼児教育の父」です。
子どもは、できたかどうかより「そのとき、どんな気持ちだったか」を生きています。泣いている理由をすぐに解決するより先に、「悔しかったね」と気持ちに触れてもらえることが、子どもの安心につながります。明日、行動より先に気持ちを受け止めたい子は誰でしょうか。
「人間は一人として迎えられ、一人として遇せられるべき、当然の尊厳をもっている。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)東京女子高等師範学校附属幼稚園の主事を務め、子どもの自発的な生活を大切にする保育を説いた「日本の幼児教育の父」です。
集団で過ごす保育では、どうしても「みんな」「〇〇組さん」と呼びかける場面が多くなります。そのなかでも、一人ひとりが名前をもった「一人」として迎えられていると感じられることが大切です。明日の朝の受け入れで、どの子にも「あなたを待っていたよ」と伝わる迎え方ができているでしょうか。
「わたしの手は子どもたちの手の中にあり、わたしの目は子どもたちの目に注がれていました。」
— ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(1746〜1827)スイスで孤児や貧しい子どもたちと寝食を共にし、愛情と生活に根ざした教育を実践した教育者です。
戦争で親を失った子どもたちと暮らしたペスタロッチの言葉です。手をつなぐ、目を合わせるといった小さな関わりが、子どもにとっては「この人はわたしを見てくれている」という実感になります。明日、一日の中で一人ひとりと目を合わせられた時間は、どのくらいあるでしょうか。
Meine Hand lag in ihrer Hand, mein Aug' ruhte auf ihrem Aug'.
当サイト訳。出典:「シュタンツ便り(シュタンツ滞在について友人にあてた手紙)」(1799)
「教育も教えも、はじめは子どものあとからついていき、見守り、守るものであるべきです。指図し、決めつけ、口をはさむものであってはなりません。」
— フリードリヒ・フレーベル(1782〜1852)世界で初めて「幼稚園(キンダーガルテン)」をつくり、遊びと恩物による保育を体系化したドイツの教育者です。
幼稚園の生みの親フレーベルは、保育者の基本の立ち位置を「あとからついていく」ことに置きました。先回りして手順を示すことが必要な場面もありますが、それが続くと、子どもが自分で考える余地は小さくなります。明日、子どもの「やってみたい」に先にことばを重ねず、少しあとからついていける場面はありそうでしょうか。
Deshalb sollen Erziehung, Unterricht und Lehre ursprünglich und in ihren ersten Grundzügen nothwendig leidend, nachgehend (nur behütend, schützend), nicht vorschreibend, bestimmend, eingreifend sein.
「人格を形づくるこの施設で、子どもたちは罰をいっさい用いずに教えられ、育てられています。」
— ロバート・オウエン(1771〜1858)スコットランドのニュー・ラナーク工場に、働く親の子どもを預かる「性格形成学院」の幼児学校を開いた実業家・社会改革家です。
体罰が当たり前だった時代に、オウエンは罰を使わない教育を実際に行っていました。今の保育でも、強い口調や「〇〇しないと××できないよ」という言い方が、知らず知らずのうちに罰の役割をしていることがあります。明日、子どもの行動を変えたいとき、罰の代わりにどんな関わりが選べそうでしょうか。
…the children are taught and trained in the institution for forming their character without any punishment.
当サイト訳。出典:『新社会観』第2論文(1813〜1814)
「自分自身が子どものようになること。それが、子どもを育てるための第一の条件です。」
— エレン・ケイ(1849〜1926)1900年に『児童の世紀』を著し、20世紀を子どもの権利と個性が尊重される時代にしようと訴えたスウェーデンの思想家です。
ケイはすぐあとで、これは子どもっぽいふりをすることではなく、子どもが世界に心を奪われるのと同じように、おとなも子どもに心を動かされることだと書いています。子どもと一緒に笑い、驚く時間は、保育の大切な専門性の一つです。最近、子どもと一緒に心から驚いたのはいつでしょうか。
Att själf varda såsom barn är det första villkoret att uppfostra barn.
当サイト訳。出典:『児童の世紀』第2巻「教育」(1900)
「子どもにこうあってほしいと求めることで働きかけるのではなく、自分自身のあり方から受ける印象によって働きかけるということです。」
— エレン・ケイ(1849〜1926)1900年に『児童の世紀』を著し、20世紀を子どもの権利と個性が尊重される時代にしようと訴えたスウェーデンの思想家です。
子どもはおとなの言葉以上に、おとなの姿をよく見ています。「やさしくしようね」と伝えるより、保育者が友だちや同僚にやさしく接している姿のほうが、ずっと深く子どもに届くのかもしれません。明日、子どもに見てほしい「自分のあり方」は何でしょうか。
Det betyder att icke påverka barnet, genom att kräfva hvad man själf vill att barnet skulle vara, utan att påverka det genom intrycket af hvad man själf är.
当サイト訳。出典:『児童の世紀』第2巻「教育」(1900)
「子どもの心もちは、極めてかすかに、極めて短い。…かすかにして短き心もちを見落とさない人だけが、子どもと倶にいる人である。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)東京女子高等師範学校附属幼稚園の主事を務め、子どもの自発的な生活を大切にする保育を説いた「日本の幼児教育の父」です。
大泣きや大げんかにはだれでも気づきますが、ふと曇った表情や、一瞬のうれしそうな顔は見過ごされがちです。そうした小さなサインに気づけることは、毎日そばにいる保育者ならではの力です。明日、目立たない子のかすかな心もちに、いくつ気づけそうでしょうか。
「教育は人情の発露である。人情だけでは教育は出来ない。」
— 倉橋惣三(1882〜1955)東京女子高等師範学校附属幼稚園の主事を務め、子どもの自発的な生活を大切にする保育を説いた「日本の幼児教育の父」です。
子どもがかわいい、大切にしたいという気持ちは保育の出発点です。一方で倉橋は、その気持ちだけでは足りず、学びや工夫に支えられてはじめて保育になると語っています。あなたの「子どもが好き」という気持ちを、明日の保育でどんな工夫に変えてみたいですか。
「だからこそ家庭よ、あなたこそが、人が自然に育っていくことすべての土台なのです。」
— ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(1746〜1827)スイスで孤児や貧しい子どもたちと寝食を共にし、愛情と生活に根ざした教育を実践した教育者です。
ペスタロッチは、人が育つ土台は家庭の生活にあると考えました。保育の場は家庭の代わりではなく、家庭とともに子どもの育ちを支える場所です。明日の送り迎えで、保護者と子どもの育ちを「一緒に喜ぶ」ために、どんな一言が伝えられそうでしょうか。
Daher bist du, Vaterhaus, Grundlage aller reinen Naturbildung der Menschheit.
当サイト訳。出典:『隠者の夕暮』(1780)
「最も良く、最も賢い親がわが子のために望むこと。それを、社会はすべての子どものために望まなければなりません。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)シカゴ大学に実験学校をつくり、子どもの経験と生活を中心にした教育を唱えたアメリカの哲学者・教育学者です。
保育は、一つひとつの家庭の願いと、社会全体の願いが重なる場所です。どの家庭に生まれた子にも、「わが子にこうあってほしい」と願われるような毎日を届けることが、保育の公共的な役割なのかもしれません。あなたの園で、どの子にも同じように届けたいと思っていることは何でしょうか。
What the best and wisest parent wants for his own child, that must the community want for all of its children.
当サイト訳。出典:『学校と社会』第1章(1899)
「学校そのものを、授業を学ぶために切り離された場所ではなく、本物の、生き生きとした共同生活の場にすること。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)シカゴ大学に実験学校をつくり、子どもの経験と生活を中心にした教育を唱えたアメリカの哲学者・教育学者です。
園での毎日は、何かを「教わる」時間である前に、みんなで暮らす生活そのものです。食事の準備やお当番、けんかの仲直りなど、生活の中には人と一緒に生きる学びがたくさんあります。明日の生活の場面で、子どもたちが「自分たちのクラスをつくっている」と感じられるのはどんなときでしょうか。
…the school itself shall be made a genuine form of active community life, instead of a place set apart in which to learn lessons.
当サイト訳。出典:『学校と社会』第1章(1899)
「子どもが生まれたら、その子のゆずれない権利のひとつは――わたしたちがよく奪ってしまうものですが――子ども時代をもつ権利です。」
— ケイト・ダグラス・ウィギン(1856〜1923)サンフランシスコで無償幼稚園を開き、保育者の養成にも力を注いだアメリカの幼稚園教育者・作家です。
子どもの権利条約よりずっと前に、幼稚園の現場から「子ども時代をもつ権利」が語られていました。習い事や早期教育、おとなの都合で、子どもらしく過ごす時間が削られてしまうことは今もあります。園で過ごす時間は、子どもにとって「子ども時代」を味わえる時間になっているでしょうか。
Once the child is born, one of his inalienable rights, which we too often deny him, is the right to his childhood.
当サイト訳。出典:『子どもの権利』(1892)所収「子どもの権利」
「ひとりで自由に歩けるようになったら、子どもたちはこの遊び場に迎え入れられます。」
— ロバート・オウエン(1771〜1858)スコットランドのニュー・ラナーク工場に、働く親の子どもを預かる「性格形成学院」の幼児学校を開いた実業家・社会改革家です。
200年前、工場で働く親の子どもたちのために、用意されたのが「遊び場」でした。歩き始めた子どもにとって、安心して動き回れる空間は、それだけで育ちを支える環境になります。明日、1〜2歳の子が「自由に歩ける」場所は、園の中にどれくらいあるでしょうか。
Into this playground the children are to be received as soon as they can freely walk alone …
当サイト訳。出典:『新社会観』第3論文(1813〜1814)
「わたしたちは、直接に教育することは決してありません。いつも、環境を通して間接的に教育しているのです。」
— ジョン・デューイ(1859〜1952)シカゴ大学に実験学校をつくり、子どもの経験と生活を中心にした教育を唱えたアメリカの哲学者・教育学者です。
「環境を通して行う保育」という考え方の源流の一つが、ここにあります。ことばで何度伝えるよりも、棚の高さや遊具の置き方、おとなのふるまいのほうが、子どもに多くを伝えていることがあります。明日、子どもに「伝えたいこと」を、ことばではなく環境で伝えるとしたら何を変えますか。
We never educate directly, but indirectly by means of the environment.
当サイト訳。出典:『民主主義と教育』第2章(1916)
「落ち着いて、ゆっくりと、自然がみずからを助けるのにまかせ、まわりの状況がその働きを支えるよう気を配るだけ。それが教育です。」
— エレン・ケイ(1849〜1926)1900年に『児童の世紀』を著し、20世紀を子どもの権利と個性が尊重される時代にしようと訴えたスウェーデンの思想家です。
エレン・ケイは、おとなの役割を「直すこと」よりも「まわりを整えること」に見ていました。子どもの気になる姿に出会ったとき、その子を変えようとする前に、まわりの状況を見直す余地があるかもしれません。明日、気になっている子のために、変えられる「まわりの状況」は何でしょうか。
Att lugnt och långsamt låta naturen hjälpa sig själf och endast tillse att de omgifvande förhållandena understödja naturens eget arbete, detta är uppfostran.
当サイト訳。出典:『児童の世紀』第2巻「教育」(1900)
「子どもには、自分の場所、自分の物、そして自分の体の大きさや願い、できることに見合ったまわりの環境をもつ権利があります。」
— ケイト・ダグラス・ウィギン(1856〜1923)サンフランシスコで無償幼稚園を開き、保育者の養成にも力を注いだアメリカの幼稚園教育者・作家です。
ウィギンはこのあと、ピアノが12フィートもあり、ドアノブに手が届かない家に住むおとなを想像してみてください、と続けています。ロッカーの高さ、手洗い場、絵本の棚は、子どもの体や「やってみたい」に合っているでしょうか。明日、子どもの目の高さにしゃがんで保育室を見回してみませんか。
The child has a right to a place of his own, to things of his own, to surroundings which have some relation to his size, his desires, and his capabilities.
当サイト訳。出典:『子どもの権利』(1892)所収「子どもの権利」
「子どもはどの年齢でも広い場所を求めています。けれども1歳から7歳までは、広い場所は食べ物や空気とほとんど同じくらい必要なのです。」
— マーガレット・マクミラン(1860〜1931)ロンドンの貧しい地域に庭と外気を重視した保育学校(ナーサリー・スクール)を開いたイギリスの社会改革家です。
マクミランは、狭い路地で育つ子どもたちのために、庭のある保育学校をつくりました。園庭が狭い園や都市部の園でも、公園や室内の配置の工夫で、体を思いきり動かせる「広さ」を生み出すことはできます。明日、子どもたちが「広い」と感じられる時間と場所は、どこにつくれそうでしょうか。
Children want space at all ages. But from the age of one to seven, space, that is ample space, is almost as much wanted as food and air.
当サイト訳。出典:『保育学校』第2章(1919)
掲載しているのは、著作権の保護期間が終わった人物のことばです。外国語の原文は当サイトで訳しました。